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父、迫田穆成のこと

私の父、迫田穆成(さこだ よしあき)は、高校野球の監督をしていました。1957年(昭和32年)、広島商業高校3年生の時主将をしていて、夏の甲子園大会で全国優勝しました。


その後母校の監督になり、1973年(昭和48年)、監督としても優勝しました。


亡くなるまで現役で監督を務めていた父と晩年一緒に暮らし、YouTubeチャンネルをつくって、おそらく最高齢のユーチューバーの一人として、いろいろなことを発信していました。


昨年12月1日に亡くなった、その父とのことを、ここに時々書いていきたいと思っています



四十九日法要の朝に

親族が集まって法要が行われる日の朝、父が階段を上がってきました。よく肥えた姿で、鮮やかなブルーのシャツを着て、階段をよいしょよいしょと登ってきました。


「あ、来たん」と声をかけたところで、目が覚めました。普段私は夢を見ないので、あれは父だ、きっと私たちに会いにきたんだ、と思いました。


お経が終わってから、会食の時、親戚にその話をしました。


「なんか元気そうだったよ」と言うと、みんな笑顔になりました。叔父や叔母、遠くに住む娘や息子家族など、たくさんの親族が集まって楽しい時間に、楽しいことが大好きな父がいないことが、楽しいのに悲しい気持ちになりました。


「おじちゃんおるよ」「そうそう、まだこの辺にいるんじゃない」。


そうか、見えないけどまだいるんだ。そう思った四十九日法要でした。


2024年、夏の大会が終わって

父が亡くなった後残された、地元竹原高校野球部のチームで、初めての甲子園広島県予選大会が終わりました。


チームは、1回戦、2回戦、3回戦とコールドゲームで勝ち進みました。父が監督をするまではコールド負けしていたチームが、こんなに強くなっていたことに驚きます。全員出場した3年生は、父に教わった事を思い出したでしょうか。


4戦目の相手は春の大会準優勝、話題のエースがいるチーム。それまでの相手とは違っていました。


2回裏、ちょっとしたことで1点先取されてしまいました。でもピンチを切り抜けたし、あと少しのチャンスも何度かありました。1対0の緊迫した試合が続きましたが、残念なことに8回裏、3点取られてしまいました。


最後の攻撃9回表、なんとか1点をもぎ取りましたが、更なる追加点にはいたらず、ゲームセット。


終わってから、3年生の部員や保護者のみなさんが、我が家にお参りに来てくれました。


大きく成長した3年生と記念撮影しました。負けたけど、晴れ晴れとしたやり切ったいい表情です。


父が教えたかったのはこれからのこと。これまでの野球部での経験をいかし、社会に出てから、荒波を乗り切って生きていくこと。これからのみんなが楽しみで仕方ないのです。

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